姉を追いかけてオクラホマへ。アメリカ留学1年間で学んだこと

私には、姉がいます。

姉は私より先にアメリカの大学へ進学していました。

テニス漬けの学生時代を送っていた私も、そんな姉の影響をかなり受けて育ちました。

テニスもそう。

そして、留学もそう。

「英語を使って、いつかグローバルな仕事がしたい」

大学を卒業した私は、1年間の語学留学をすることにしました。

行き先は、アメリカ・オクラホマ州。

今振り返ると、私の人生は姉の後を追いかけていることが多かった気がします。

妹の特権でしょうか(笑)。

本当は、姉と同じところへ行きたくなかった

実は私、

「お姉ちゃんと同じところには行きたくない」

という気持ちもありました。

でも、親からすれば、娘を一人で海外へ送り出すなら、姉がいるところの方が安心だったのでしょう。

結局、姉夫婦のいるオクラホマへ行くことになりました。

とはいえ、

「姉がいるなら日本語で生活できるじゃん」

とはなりませんでした。

姉夫婦と一緒に暮らしていても、家の中は英語オンリー。

週末には、当時の姉の旦那さんの実家へ行き、ホームステイのような生活をしていました。

何もない田舎。でも、私の好きなものがいっぱいあった

オクラホマは、とてものどかなところでした。

週末になっても、特にすることがない(笑)。

だから、家でお菓子を作ったり、キルティングをしたり。

でも私にとっては、それがとても楽しかった。

今思えば、

お菓子を作ること。

手を動かして何かを作ること。

家族や大切な人と食卓を囲むこと。

私が今も好きなものが、そこにはたくさんありました。

先日、アメリカンアップルパイを焼きながらオクラホマのホストマザーを思い出したのも、きっとそのせいです。

特別な観光地へ行った思い出よりも、

キッチンの匂いや、

誰かと一緒に作ったものや、

何気ない日常の方が、何十年経っても不思議と残っています。

バーベキュー屋さんのおじいちゃん

留学中、よく行っていたバーベキューのお店がありました。

そこにいたおじいちゃんが、なぜか私のことをとても可愛がってくれました。

お店へ行くたびに、

「キッチンにおいで!」

と呼んでくれて、いろいろサービスしてくれました。

そして、日本へ帰国する時。

おじいちゃんが持たせてくれたのが、

なんと約4kgのバーベキュー・プルドポーク。

なぜ今でも「4kg」とはっきり覚えているのか。

ちゃんと理由があります。

空港で荷物を量ったら、

4kgオーバー。

仕方なく、そのバーベキューを荷物から出したら……

ちょうどOKになったからです(笑)。

あんなに持たせてくれたおじいちゃんの気持ちを思うと、今でも胸が温かくなります。

帰国後、憧れていたホテルの仕事へ

1年間の留学を終えて日本へ帰国した私は、ヒルトンホテルで働き始めました。

仕事は、オーダーテイカー。

英語を使う仕事がしたい。

グローバルな環境で働きたい。

学生の頃に思い描いていた世界に、一度は入ることができました。

そこで過ごした2年間は、とても濃い時間でした。

仕事だけではなく、人との関わり方や社会人としてのあり方など、人生において大切なことをたくさん学ばせてもらいました。

だから、決して嫌だったわけではありません。

それでも、働きながら少しずつ、

「何か違う」

と思うようになりました。

そして2年で退職しました。

ホストマザーと浴衣で写真を撮りたくて

着付けを始めたきっかけも、実はアメリカでした。

オクラホマでお世話になったホストマザーと、浴衣を着て一緒に写真を撮りたい。

最初は、ただそれだけでした。

そのために着付けを習い始めました。

ところが、やってみたら楽しかった。

自分で着ることはもちろん、

「人に着せるって、こんなに楽しいんだ」

と知りました。

そこから本格的に着付けを学び、着付師としての道へ。

今も続けている仕事の一つになりました。

人生って、本当に分からないものです。

「ホストマザーと浴衣で写真を撮りたい」

そんな小さなきっかけが、何十年も続く仕事につながるなんて、当時の私は思ってもいませんでした。

ホテルを辞めてから、アメリカを行ったり来たり

ホテルを辞めてからは、実家の仕事を手伝いながら、姉が暮らすユタやサンフランシスコへ行ったり来たりしていました。

今思えば、本当に好きなことをさせてもらっていたと思います。

そして不思議なのが、主人です。

実は主人も同じ頃、歯科技工士としてアメリカのマーセッドへ留学し、3年間暮らしていました。

生まれた場所。

学校。

そして、その先のアメリカ。

まだ出会っていなかった二人なのに、振り返ってみると、同じ頃に不思議と近い場所にいました。

そして後に出会い、結婚することになります。

私たちの結婚式はサンフランシスコで

結婚式を挙げたのは、サンフランシスコでした。

主人と私にとって、アメリカはそれぞれが別々に過ごした場所でありながら、共通する大切な場所でもありました。

そして、子どもたちが生まれてからも、海外との行き来は続きました。

サンフランシスコへサマースクールに行ったり、長期で滞在したり。

息子がまだ歩き始める頃には、1か月ほど滞在し、息子を抱っこしながら着付けを教えに行ったこともあります。

姉がシンガポールへ移れば、今度は子どもたちを連れてシンガポールへ。

振り返ると、私たち家族にとって海外は、

「観光に行く場所」

というより、

「そこで生活する場所」

だったように思います。

有名な観光地を巡るより、

スーパーへ行って、

現地の人と話して、

子どもたちは現地の学校へ行って、

その土地の日常の中に入っていく。

いつも、そんな旅でした。

海外を知った子どもたちが選んだのは、日本だった

私は海外で暮らした経験があったからこそ、子どもたちにもいろいろな世界を見せたいと思ってきました。

だからといって、

「海外へ行きなさい」

「英語を話せるようになりなさい」

と思っていたわけではありません。

実際、いろいろな国や環境を経験した子どもたちは、海外に特別な憧れを持つこともなく、

「日本をベースに暮らしたい」

と思っているようです。

それでいい。

むしろ私は、それが嬉しい。

知らないまま選ぶのではなく、

いろいろな環境を知った上で、自分に合う場所を自分で選ぶ。

それができればいいと思っています。

留学で得たものは、英語だけではなかった

こうして振り返ってみると、私の留学には、何か華々しいエピソードがあるわけではありません。

英語がペラペラになって大成功したとか、

海外で何か大きなことを成し遂げたとか、

そんな話でもありません。

でも、今の私を作っているものの中には、あの1年間でもらったものがたくさんあります。

違う文化の中で暮らしたこと。

言葉が違う人たちと生活したこと。

家族ではない人に可愛がってもらったこと。

お菓子を作ったこと。

キルティングをしたこと。

そして、自分の「好き」が思いがけない仕事につながったこと。

人生は、経験したその瞬間には、それが何につながるのか分からないものなのかもしれません。

でも、何十年も経って振り返ると、

「あの経験が、ここにつながっていたんだ」

と思うことがたくさんあります。

だから私は、子育てでも「経験すること」を大切にしてきました。

子どもを一つの環境に合わせようとするのではなく、

いろいろな世界を見せて、

いろいろな人と出会って、

その中から、自分が心地よくいられる場所を見つけてほしい。

今の私が大切にしている、

「人を変えるより、環境を考える」

という子育ての軸にも、きっと私自身が経験してきたことがつながっています。

オクラホマまでは、飛行機を何度も乗り継がなければならず、本当に遠い。

簡単に「また行こう」と言える場所ではありません。

それでも、いつかもう一度行けたらいいなと思います。

あの頃歩いた場所を歩いて、

懐かしい空気を吸って、

あの1年間が今の私にどれだけつながっているのか。

今度は52歳になった私の目で、もう一度見てみたいと思っています。

ホストファミリーと

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